第5話 ボランティアバス

4組犬飼 康雄 です。

inukai

奥様との演奏活動

昨年外資系の生命保険会社を早期退職し、現在は無職です。昔から珈琲が好きで、珈琲豆の自家焙煎店開業をめざし現在修行中の身でもあります。また時々、家内とユニットを組んで昔のフォークソングを唄ったりしています。
2011年3月11日東日本を襲った大地震と津波、その後に起こった原発事故は、私たち誰もがこれまで経験したことのない大災害で、6月4日現在の警察庁まとめによる被災者数は、死者15355名、行方不明8281名、避難者数98916名という膨大な数にのぼっています。横浜に住む私が、義援金の募金以外に被災された方々のために何かできないかと考えていたとき、「神奈川災害ボランティアネットワーク」(KSVN)の存在を知り、さっそくボランティアの登録をしました。そのKSVNのとりくみの一つに、夜行バスで被災地に行き、昼間ボランティア活動して現地には泊まらずバスで帰ってくるという「ボランティアバス」の募集があったので参加することにしました。これまで2回宮城と岩手に行き泥出しや瓦礫の撤去のお手伝いを行ってきましたが、以下はそのレポートです。

ボランティアバス宮城便(2011年5月20日~21日)

神奈川災害ボランティアネットワークの夜行日帰り被災地支援ボランティア活動に参加し、宮城県東松島市に行ってきました。夜行日帰りの文字通り、夜の7時半に横浜をバスで出発し、翌日現地でボランティア活動、午後の3時半には現地を出発、午後10時過ぎに横浜に帰着の強行軍。現地での作業は休憩除くと実質4時間ぐらいしかできませんでしたが、それでも行っただけの成果はあったと思います。

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5/21東松島市 泥出し作業終了後の倉庫

参加したボランティア37名は、大学生から60代まで幅広い年齢層で、女性も半数近く占めていました。現地に着いたら雨で、一時は待機、そのまま作業なしで戻るはめになることも心配されましたが、運よく晴れて暑くなりました。
4班に分かれて作業箇所を分担、私の加わった班では、3月11日の津波で建物は流されなかったものの、海の水に浸かってしまいそのまま2ヶ月間手つかずで残されていた駐車場や倉庫から泥を掻きだす作業を行いました。スコップで泥をすくい土のう袋に入れる作業、これが日ごろの運動不足の身にはつらい。すぐに汗だくになるし、腰は悲鳴をあげるしで、適宜役割を分担しながら作業を進めていきました。特に倉庫にたまった泥はドロドロのヘドロで、大人数での人海戦術がなかったらとても掻きだせなかったでしょう。一人ひとりの力は小さいかもしれないけれど、みんなの力を合わせれば不可能も可能になるんだということを今さらのように実感し、感動しました。
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ボランティアバス岩手便(2011年6月3日~5日)

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6/4陸前高田市 県立高田病院(津波直後屋上に避難した人達の映像が盛んに報道された病院)

5月の宮城県東松島市行きボランティアに続き、車中2泊の岩手県行き「弾丸ツアー」に参加してきました。前回のボランティアから帰ってまもなく神奈川災害ボランティアネットワークから、東松島市行きのバスの追加募集に加えて岩手行き2便の募集があったので応募したものです。
 今回はスタッフ含めて35名の参加(男性20名、女性15名)、前回同様ボランティアバス初参加という方がほとんどでした。
 6月3日金曜日の午後9時に横浜天理ビル前を出発したバスは、翌朝6時半ごろに現地のボランティア拠点になっている「遠野まごころネット」のある遠野市総合福祉センターに到着。(遠野まごごろネットのHP⇒http://tonomagokoro.net/)
かながわ隊は陸前高田市での作業が割り当てられました。
遠野市から陸前高田までさらに1時間以上かけて移動。のどかな田園風景を少し行くと風景は一変、メディアで散々目にしていた風景が目に飛び込んできました。

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遠野市総合福祉センター前
(ボラバス参加者全員で記念撮影)


震災・津波が起こってからほぼ3か月経過した今、瓦礫などは大分集められ整理されているようですが、目の前に広がる「荒野」を実際に見たときの気持ちは言葉に表せません。ただ唖然とするばかりでした。テレビの映像や報道写真はやはり切り取られた「現実」でしかないのだと思います。それでも、バスの窓越しに夢中でシャッターを切る自分がいました。この現実を少しでも記憶にとどめておきたい、そんな想いで。
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